アイ・ジョージ YouTube

父は日本人、母がスペイン系フィリピン人のハーフとして生まれている。
本名の石松譲治の苗字のイニシャル「I」から取ってアイージョージの
芸名を名のった。

香港で生まれ、幼い頃母を亡くし、父の仕事の関係で香港、大連、
上海、マニラを転々とし昭和十八年(一九四三)父が出征することになって、
祖母と大阪に来た。

その祖母を空襲で亡くし、長野県飯田市郊外の果樹園に引き取られ、
土地の下伊那農学校の定時制に学んだ。

昭和二十三年、消息不明たった父に再会したが、戦犯で刑務所生活
を余儀なくされた父は衰弱していて間もなく病没した。

孤児となった譲治は、それから六年間、大宮のパン屋をふり出しに、
運送屋、ボクシング選手、競輪選手、パチンコ屋の店員とさまざまな職業を
転々とし、昭和二十八年、腹底に響く美声に目覚めて流しになった。

ちょうどその頃、テイチクで歌手を募集していたので受けたところ合格。
第二の田端義夫の期待を受けて「裏街ながしうた」でデビューした。

黒田春夫の芸名だった。

しかし、石松譲治の精悍な風貌と、ダイナミックな唱法には演歌は合わず、
バッキー白片とアロハ・ハワイアンズの伴奏で「オー・ハッピーデー」「涙のチャペル」
など数枚を吹き込んだだけで、テイチクを退社。

たまたま、大阪の「クラブーアロー」に外人歌手代理で出演したところ、ラテン
ものを歌って圧倒的に受けたことから、支配人の古川益雄に見込まれて、
アロー専属歌手になった。

このクラブで、森繁久彌や作家、石浜恒夫に見込まれたが、石松譲治は
「こいさんのラブコール」を作詞した石浜に、
「今度、レコードでデビューする時には、ぜひ作詞して下さい」と頼み、
快諾を得ていた。

辣腕の古川益雄と知り合ったことで前途が拓け、トリオーロスーパンチョスの
日本公演前座歌手となって、改めてアイージョージとしてデビュー。

初めは外国曲を中心に歌っていたが、石浜恒夫にオリジナル曲の作詞を依頼し、
昭和三十六年に自作曲の「硝子のジョニー」を歌って、ひびきのある美声で
大ヒットに結びつけた。

NHK紅白歌合戦には、昭和三十五年の第十一回から、四十一年まで
連続出場し、日本人ばなれした歌唱力を発揮して、
「ラーマラゲーニヤ」を振り出しに「硝子のジョニー」「ククルーククーパロマ」
「ダニー・ボーイ」「紅子のバラード」「赤いグラス」「夜のストレンジャー」
「別れのバラード」「リパブリック讃歌」「自由通りの午後」など歌ったが、過半が
外国のカバー曲であった。

アイージョージの勲章は、日本人歌手としては初めて、アメリカの最高の桧舞台
カーネギー・ホール公演を果たしていることだった。

昭和三十八年十月八日から十日にかけ、晴れの舞台に立ったのだが、当時は
大成功と報道されていた。

が、公演に一枚噛んだ作家の五味康祐の言葉によると、古川益雄の
ハッタリ興行で、大赤字だったと言う。

晩年のアイージョージには、常に金銭トラブルの噂が渦巻いていた。