淡谷のり子 YouTube

歯に衣を着せぬ、歌謡界切っての大姐御の貫禄があった。

青森市の豪商大五阿波屋に生まれたが、三歳の時、大火で
生家は没落。大正十二年に母と妹とともに上京。

東洋音楽学校(現東京音楽大学)を裸婦のモデルをしながら首席で
卒業した。

十年に一人のソプラノと絶賛されて、クラシック歌手を志すが、
昭和五年頃から浅草映画館のアトラクションで歌い、コロムビアから
古賀政男作曲の「私此頃憂鬱よ」を出し、卒業生名簿から抹消された。

後年復籍するが、彼女の頑固ぶりは、戦時下でも衰えることはなく、
派手なドレスを着て戦地慰問をし、喜ばれた。

日中戦争が勃発した昭和十二年に、藤浦洸作詞・服部良一作曲の
「別れのブルース」の大ヒットで一躍、スターダムに昇りつめた。

当初は、「ニオクターブも低いアルトでは絶対歌えない」と反発。

服部良一に
「ブルースにソプラノもアルトもない。キーを下げて歌って下さい」
と懇願され、深酒と煙草でノドを荒らしてレコーディングに臨み、
マイクに囁くように歌って、見事に歌いあげた。

「別れのブルース」の大ヒットで、彼女は”ブルースの女王”と謳われた。

が、地方へ行くと”ズロースの女王”と看板に書かれていたという。
恋多き女でピアノ奏者和田肇、矢田茂などとの関係で知られた。

ヒット曲は、シャンソン、夕ンゴ、ブルースと幅が広く「暗い日曜日」
「雨のブルース」「夜のプラットホーム」「君忘れじのブルース」
「白樺の小径」「恋人よ」「昔一人の歌い手がいた」等、多彩だった。

日々発声練習を怠らず、やがてファルセット唱法で高音をカバーするよう
になったが、声楽の基礎がしっかりしているのでいささかのゆるぎもなかった。

自己に厳しかっただけに、楽譜も読めず、発声練習をしない若手歌手には
「歌手ではなくてカスー歌屋よ」と切って捨て物議を巻き起こした。

美空ひばり、三波春夫も”歌屋”のレッテルを張られた歌手で、少女時代
にひばりは淡谷と風呂ヘー緒に入ったこともあった。

精進しない歌手は貶す一方、才能ある者は高く評価した。晩年、五輪真弓の
「恋人よ」をレパートリーに入れ、心をこめて歌っていた。

「ステージで歌っていて死にたい」が念願だったが、平成五年に脳梗塞で
倒れてからは歌への意欲を失くした。

「私此頃憂鬱よ」のA面は藤山一郎の「酒は涙か溜息か」だった。
藤山は淡谷の気に人口だ歌以外は歌わない偏食ぶりを残念がり、
「イボンヌ淡谷でシャンソン、あるいはジャズ専門で生きる手もあったのに」
と残念がった。

平成八年、後輩たちの発意で、淡谷の米寿記念コンサートが開かれた折、
持ち歌の「別れのブルース」を森進一に、「雨のブルース」を美川憲一に「
形見分けのプレゼントする」と発表し話題になった。

しかし、これは周囲が勝手にお膳立てしたものだった。
九十二歳で死去。青森市の名誉市民(四人目、女性初)に推された。