エルトン・ジョン Youtube


1970年8月、アメリカ進出の足がかりとして、無名の新人歌手だった
エルトンはプロモーション公演を行った。
彼はロサンゼルスのクラブ、トドゥルパドールのステージに立ち、
ピアノの弾き語りを披露、集まったお客の反応を伺った。

その時に歌われ、エルトンのアメリカ進出を促進するキーポイントに
なった作品がこの「僕の…」だった。

エルトンの米レコード・デビューは70年、ヴァイキング・レーベルから
「フロム・デュンヴァー・トウ・LA」が発売される。

本作品はレコード会社を変えての2作目、哀愁味漂う旋律のバラードで、
全米8位を記録。

ジェリー・マースデン(元ペイスメツカーズ)等がカバーを発表するが、
リバイバル・ヒットはない。

ドン・マクリーンの「アメリカン・パイ」がロックン・ロールへの
回顧ならば、エルトン初の、この全米1位曲はそれに呼応した
オマージュ的な作品と海外音楽メディアは位置づけている。

エルトンが尊敬するロックン・ローラーのひとり、ジェリー・リー・ルイス
ばりのリズミックに鍵盤を転がすホンキー・トンク調のピアノ、シャウト
するヴォーカル、いつかどこかで聞いた懐かしさが、この作品には充満
している。エルトンはコレクションの、好きなオールディーズ・レコード
のビル・ヘイリー&ピズ・コメッツの「シー・ユー・レイダー・アリゲイター」
をヒントにこの作品を書いた。

これは彼の「ロックン・ロール・ヒストリー作品だ」と自ら語っている。

アルバム[ピアニストを撃つな」は全世界で400万枚のセールスを記録した。
しかもそこからは初の全米1位シングル「クロコダイル・ロック」が
誕生し、この時期のエルトンは実績と人気が合致して活動も安定し、
軌道に乗った状態だった。

レコーディングには常に倍の作品を用意すること語っていたエルトンが
、デビュー以来初めて取り組んだ2枚組のアルバム「グッバイ・イェロー」
は、前作「ピアニスト‥・」から約8ヵ月というスピードで制作、発表された。

そしてここからシングル発売されたこのタイトル曲は、編曲者の
デル・ニューマン指揮の楽団演奏をバックに録音、バーニーのライフ・スタイル
を詞に綴ったバラードで、日本ではCM音楽にも使用。

エルトンの歌では惜しくも2位止まりだったが、多くのファンや
アーティストかち高い評価を得ているバラードの傑作。

シカゴのプロデューサー、ウィリアム・ガルシオのカリブ・ラ・ンチ・スタジオ
で録音、バック・コーラスにビーチ・ボーイズのカール・ウィルソンと
ブルース・ジョンストン、キャプテン&デニールのトニー・テニール等が参加した。

92年にこの曲はエルトンとジョージ・マイケルのデュオで全米1位に。
後に2人はジョージのライヅでもこの歌を披露、93年のアルバム
「デュエット・ソングス」に収録された。

またエルトンのトリビュート・アルバム「トゥー・ルームス」では
オリータ・アダムズがこの作品をリメイクしている。

ビートルズ作品が彼ら以外のアーティストに歌われて全米1位を記録した
唯一の例がこの楽曲だ。
ビー トルズ作品をエルトンがリメイクしたそもそものきっかけは、
ジョン・レノンとの相次ぐ、偶然の出会いに始まったレノンから自分の
レコーディングに参加しないか、とエルトンが最初に誘われた。

それが74年1位の「真夜中を突っ走れ」である。エルトンはこの時、レノンを
今度は僕のレコーディングに来てほしいと告げた。そしてレノン参加で実現
したビートルズ楽曲のカバーがこれだ。

作品はレノンの息子のジュリアンが持ち帰った友達ルーシーの絵をヒントに
書かれたが、発表当時は題名の略がLSDになるので、麻薬について歌った
ものだといわれた。